小泉セツの実母である小泉チエ(旧姓:塩見)の生涯の終焉について、具体的な情報がいくつか見られます。
■終焉の時期と年齢
チエは大正元年(1912年)1月に世を去りました。
亡くなった時の年齢は74歳でした。
小泉セツ(および夫の小泉八雲)の経済的な援助が、物乞いをするほどの極貧にあった小泉チエが晩年を安定して送り、74歳まで長生きできた大きな要因の一つと考えられます。
チエは明治維新後の士族没落により極度の貧困に陥り、一時期は「物乞い」の状態にまでなっていたと伝えられています。
しかし、娘であるセツが明治24年(1891年)に高給取りの外国人英語教師ラフカディオ・ハーン(後の小泉八雲)と結婚して以降、状況は大きく変わりました。
〇セツ・八雲による援助の開始
八雲が高給取りだったため、セツは実母であるチエに対し経済的な援助を開始しました。
〇生活の安定
この援助によって、チエは極貧から脱し、晩年は安定した暮らしを手に入れることができました。
この援助のおかげで、チエは最終的に74歳(大正元年/1912年没)という当時としては比較的長寿を全うできたと考えられています。
■晩年の状況
チエは松江藩の家老の娘として生まれ、「御家中随一の御器量」と称されるほどの美貌の持ち主でした。
しかし、明治維新後の士族没落の時代の中で、小泉家も困窮し、チエも極端な貧困に陥りました。
晩年には、食べるために家に残る品々を売り払い、ついには物乞いとなる状態にまで落ちぶれたとされています。
『山陰新聞』には「乞食(こじき)と迄に至りし」という記述があったほどです。
それでも、彼女は上流武家として育った誇りから、容易に箒や雑巾を持とうとはしなかったと伝えられています。
しかし、三弦(三味線)は玄人はだしであり、大の読書家で、特に馬琴物を諳んじるほどでした。
彼女の立ち姿は崩れなかったという記録もあり、武士の娘としての誇りを最後まで抱え続けた人生だったと評されています。
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■前半生の経緯
チエの人生は激動でした。
天保8年(1837年)に松江藩家老の塩見増右衛門の娘として誕生。
最初の結婚は満13歳ごろ(嘉永3年/1850年)でしたが、婚礼の夜に花婿が侍女と心中するという悲劇に見舞われ、すぐに里に引き取られました。
その約1年後の嘉永4年(1851年)の晩秋、小泉湊と再婚し、セツが誕生しました。
小泉湊は、松江藩では最上位の士族階級である「上士」であり、代々藩主松平家に仕える家柄でした。
家禄は300石と伝わり、藩の役職では番頭(ばんがしら)などを務めた、由緒ある名家でした。
つまり、彼は小泉家の当主(8代目弥右衛門)であり、藩の重要な役職を務める武士であって、誰かの家来という立場ではありませんでした。

