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小泉八雲の死と妻セツの奮闘

小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の最期と、遺された妻・セツがどのように彼の遺志を守り抜いたのかについて、詳しく説明します。

小泉八雲の最期
小泉八雲は1904年(明治37年)9月26日、心臓発作(狭心症)により54歳でその生涯を閉じました。

八雲は亡くなる数年前から体調を崩しており、特に視力の減退と心臓の痛みに悩まされていました。

亡くなる当日の夕食後、彼は書斎を歩き回りながら不意に苦痛を訴え、そのまま床に臥せました。

セツに看取られながら、非常に静かな最期だったと伝えられています。

八雲は生前、セツに対して「自分が死んでも、日本風に葬ってほしい」「小さな竹の筒に花を生けて、どこか静かな寺に埋めてほしい」と遺言を残していました。

その言葉通り、葬儀は東京・市ヶ谷の自証院で、仏教式(曹洞宗)にて執り行われました。

妻・セツの奮闘と献身
八雲の死後、セツは悲しみに暮れる間もなく、一家の柱として、そして「小泉八雲の文学」の守護者として大きな責任を負うことになります。

1. 子供たちの養育と教育
八雲とセツの間には、一雄、厳、清、寿代という3男1女がいました。

当時の小泉家には八雲の印税という収入源はありましたが、決して盤石なものではありませんでした。

セツは八雲の遺志を継ぎ、子供たちを立派に育てることに全力を注ぎました。

特に長男の一雄に対しては、父の思い出を語り聞かせ、後に彼が八雲の伝記を執筆する礎を築きました。

2. 八雲の著作権と遺稿の管理
これがセツの最も大きな功績の一つです。

当時、著作権の概念はまだ不安定な時代でしたが、セツは八雲の未発表の原稿や書簡を散逸させないよう厳重に管理しました。

*海外出版社とのやり取り
セツは英語が堪能だったわけではありませんが、周囲の助けを借りながら、八雲の死後に出版された著作の確認や、印税の管理を行いました。

*遺品の保存
八雲が愛用していた机、椅子、キセルなどの遺品を大切に保管し、彼が執筆に没頭した環境をそのまま守り続けました。

3. 『思い出の記』の執筆
セツは、八雲との生活を振り返った随筆『思い出の記』を書き上げました。

この著作は、八雲の日常、彼の日本に対する深い愛情、そして夫婦の絆を記録した貴重な史料となりました。

セツの温かく、かつ鋭い観察眼によって描かれた八雲像は、後の八雲研究において欠かせない資料となっています。

「パパさんは、子供のような心を持った、本当に優しい人でした」

セツはこのように語り、世間が抱く「変わり者の西洋人」という八雲のイメージを、血の通った一人の人間、そして良き夫・父としての姿に塗り替えました。

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4. 八雲の顕彰と「小泉家」の維持
セツは八雲の死後28年間にわたり、彼を偲び続けました。

彼女は八雲の命日を大切にし、訪ねてくる教え子や研究者たちを温かく迎え入れ、八雲の思い出を語り継ぎました。

1932年(昭和7年)に彼女が亡くなるまで、小泉家が「八雲の聖地」として守られたのは、セツの凛とした強さと献身があったからです。

〇まとめ
小泉八雲という稀代の文豪が、日本でその才能を存分に発揮し、死後もなお愛され続けているのは、妻・セツという理解者がいたからに他なりません。

彼女は単なる「妻」という立場を超え、八雲の文学的価値を理解し、それを次世代へと繋ぐ「共同制作者」のような役割を果たしたといえるでしょう。