NHK朝ドラ「ばけばけ」のモデルで小泉八雲とセツは史実ではどんな関係だったのでしょうか?
単なる女中ではなかったようですが?
ハーンが明治24年(1891)の1月か2月ごろ、錦織のモデルである西田千太郎に宛てた書簡には、住み込み女中を求めていると書かれています。
また、『西田千太郎日記』の原本には、もともと書かれていた文字が消され、その脇に「節子氏」「細君」と書かれた箇所がありました。
そして、消されていた文字は「ハーン氏の妾」「愛妾」だった。
西田の次男の敬三が、ハーンとセツの遺族に配慮して、「妾」であったことを示す表記を修正していました。
したがって、セツは明治24年(1881)の2月ごろから、住み込みの女中、すなわち事実上のラシャメンとして、ハーンのもとで働きはじめたと考えられます。
これは当時の時代背景、特に外国人との結婚に対する社会的な偏見と、セツが没落士族の娘であったという二つの事情が大きく関係しています。
1. 「洋妾(ラシャメン)」という偏見
・当時の呼称
明治時代、外国人(西洋人)の妻となる日本人女性は、正式な国際結婚という概念がまだ社会に浸透しておらず、蔑視的な意味を込めて「雑婚」と呼ばれたり、洋妾(ラシャメン)として見られることが少なくありませんでした。
ラシャメンとは、外国人居留地の周辺で生活する女性を指す言葉で、洋妾という意味合いで使われました。
・セツの証言
セツ自身も晩年、松江の町で「洋妾」と呼ばれたことが「一番つらかった」と回想しており、この社会的偏見に苦しんだことが伺えます。
2. 八雲の女中探しと周囲の誤解
・高額な給金
八雲(ハーン)が女中を探す際、地元の旅館の女中より遥かに高額な給金(月額20円=現在約80万円)を提示したため、女中探しを請け負った同僚や旅館の夫婦、さらにはセツ自身も、ハーンが西洋人の妾を求めていると誤解した側面がありました。
当時、生活に困窮した士族の娘が外国人の妾になる例は少なからず存在したからです。
・ハーンの拒否
しかし、史実によると、ハーンは家族(養父・養母)を引き連れて乗り込んできたセツの一家に、「私のことをそんな男だと思っていたのか。ふざけるな!」と怒鳴りつけ、妾として雇う意図は全くなく、正式な妻として迎える意思を明確に示しています。
彼は、セツと出会いわずか4ヶ月で結婚(事実婚)に至っており、その関係は愛情と相互理解に基づくものでした。
セツが当初は女中として雇われ、周囲から「妾」と誤解されたり中傷されたりしたことは事実ですが、ハーン自身はセツを正式な伴侶として迎え入れ、後に日本に帰化して小泉姓を名乗るなど、夫婦関係を大切にしました。
セツは、社会的偏見に立ち向かいながら、八雲の文学活動における不可欠な協力者であり、かけがえのない妻としての役割を全うしたい言えます。
【PR】
今から人生を謳歌する ピアノ演奏のすすめ
■文学創作上の協力関係
・語り部(ストーリーテラー)
セツは幼少の頃から物語が好きで、ハーンに対し日本の古い伝説、民話、怪談などを語って聞かせました。
・共同作業
ハーンはセツから聞いた話や日本の風習、文化に関する説明を基に、『怪談』や『知られぬ日本の面影』などの作品を創作しました。
セツは、ハーンの作品世界を支えた最大の功労者とされています。
・異文化理解の架け橋
セツの存在と彼女が語る日本の物語や文化は、ハーンが日本という異文化を深く理解し、その魅力を世界に伝える上で不可欠な要素でした。
二人は、それぞれのつらい過去(ハーンは幼少期に母と生き別れ、左目を失明。セツは養子に出され、最初の結婚で離婚を経験)を共有し、物語好きという共通点を通じて、心で響き合う関係を築きました。
セツは、ハーンにとって単なる身の回りの世話をする「女中」ではなく、生涯の伴侶であり、かけがえのない協力者だったのです。

