小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)が日本で最初に滞在した松江の冨田旅館で、女中代わりとして働いていたお信(おのぶ)の生涯について、詳しい記録は限られていますが、主に八雲との関わりを通じて、その境遇が伝えられています。
■お信の境遇と冨田旅館での生活
○生い立ちと冨田旅館へ
お信は、7歳で両親を亡くし、祖母と弟と共に「少々のゆかり」を頼って冨田旅館へ身を寄せました。
冨田旅館の主人・冨田太平(とみた たいへい)と女将・ツネ(つね)夫婦は、お信を養女にしていた一方で、実態としては女中代わりとして幼い頃から働かせていたとされます。
これは、彼女が無償で労働に従事していたことを示唆しています。
八雲が滞在中、彼女が煙管(きせる)の世話などの女中としての仕事を担っていました。
彼女の境遇は、23歳で亡くなるまで変わらなかったとされています。
○小泉八雲との関わり
明治23年(1890年)8月に松江に到着した八雲は、冨田旅館に滞在し、お信と接することになります。
八雲は、弱者が搾取される境遇に強い関心を寄せており、お信の姿に自分自身の影を重ねて見ていたとも言われています。
八雲が隠居屋に移った後も、旅館から毎日三度の食事を運び、お信が給仕をしていました。
八雲は、お信が眼病を患っていることを知ると、冨田夫婦が適切な治療を受けさせていなかったことに激怒しました。
八雲は自らお信を眼科に連れていき、治療費を支払ったというエピソードが残っています(明治23年11月18日の「山陰新聞」で美談として報道)。
この出来事が、八雲と冨田旅館との関係悪化の一因となり、八雲はセツと結婚した後も、冨田旅館に立ち寄ることを生涯拒絶したと伝えられています。
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○その後の情報
*八雲の妻セツとの関連
八雲がお信の境遇を深く憂い、救おうとする姿を妻となるセツ(節子)が間近で見ていた、または話を聞いていた可能性があり、これがセツが八雲を信頼し、結婚を決断する一因になったとも考えられています。
*死没
お信は23歳で亡くなったと伝えられています。
彼女の生涯は、八雲の著作にはほとんど残されていませんが、冨田旅館の主人夫婦の回想をまとめた記録『冨田旅館ニ於ケル小泉八雲先生』などに、その断片が記されています。

