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小泉八雲 最初の結婚の失敗

小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の最初の結婚は、彼がアメリカのシンシナティで新聞記者をしていた時期にあり、当時の社会情勢や法律に絡んで破綻しました。

■最初の結婚の相手と時期
・相手の女性
アリシア・フォリー(通称マティ・フォリー)という女性です。

彼女は白人の農場主と黒人奴隷との間に生まれた「混血」の女性で、八雲が下宿していた家の料理人でした。

彼女が語る幽霊話が八雲の興味を惹いたとも言われています。

・結婚の時期
1874年6月14日に結婚しています。

■結婚が問題となった背景と顛末
・州法による禁止
当時、八雲が住んでいたオハイオ州では、白人と有色人種(黒人)との婚姻は法律で禁止されていました(異人種間婚姻の禁止)。

八雲は周囲の反対を押し切ってマティと結婚しましたが、違法行為で罰せられる可能性がありました。

正式な婚姻届が受理された形跡はないとされ、結婚式は最初に頼んだ牧師に拒否され、黒人牧師が司式しました。

・解雇と職の移動
この結婚が原因となり、八雲は勤めていた新聞社であるシンシナティ・エンクワイアラー社を解雇されます(1875年7月末)。

その後、ライバル紙のシンシナティ・コマーシャル社に移って仕事を続けました。

・結婚生活の破綻
結婚生活自体も長くは続かず、約3年ほどで破綻し、二人は別居することになりました。

この結婚は、八雲がアメリカで新聞社社員の地位を掴みかけた矢先に、当時の社会的な禁忌を破ったことで職を失い、生活の転機となる出来事でした。

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■ニューオーリンズ時代(ルイジアナ州)
・移動と活躍
1877年にルイジアナの政治に関する記事を書くためにニューオーリンズへ移り、その後約10年間を過ごします。

・テーマの拡大
『アイテム』紙(後に『タイムズ=デモクラット』紙)で執筆し、フランス文学の翻訳、オリジナルの短編やスケッチ、海外文学の翻案などを発表しました。

特にヴードゥーやクレオール文化など、多文化的なニューオーリンズ特有のテーマに焦点を当て、フランス語の知識を活かしました。

・初期の著作
この時期に『異国風俗の断片』(1884年)や『中国の幽霊』(1887年)といった初期の著作を出版しています。

■西インド諸島時代
・ハーパーズ・マガジン特派員
1887年から1889年にかけて、雑誌『ハーパーズ・マガジン』の特派員としてフランス領マルティニーク島などの西インド諸島に渡ります。

・著作
この滞在は、『フランス領西インド諸島の二年』(1890年)や、奴隷反乱を扱った小説『ユーマ』(1890年)として結実しました。

■日本への到着
西インド諸島から帰国後、八雲は『ハーパーズ・マガジン』の特派員として日本へ渡航します。

1890年(明治23年)に来日しました。

当初は新聞社の契約で日本に来ましたが、すぐにその契約を解除し、教育省の役人などの助けを得て、島根県の松江で英語教師の職を得て、日本での新たな生活を始めました。