小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)が、妻セツとその養父母まで連れて意気揚々と乗り込んだ熊本での生活が、わずか3年で終わりを迎えた背景には、単なる「飽き」ではなく、複数の深刻な要因が絡み合っていました。
当時の状況を整理すると、主な理由は以下の3点に集約されます。
1. 理想と現実のギャップ(保守的な校風)
八雲は松江(島根県)での生活を通じて、「古き良き日本」に深い愛着を抱いていました。
しかし、転勤先の第五高等中学校(現在の熊本大学)は、松江ののどかな雰囲気とは正反対でした。
*質実剛健の気風
当時の熊本は軍国主義的な色彩が強く、学校も非常に厳格で保守的でした。
*学生との距離
松江では生徒から慕われ、神様のように扱われた八雲でしたが、熊本の学生たちは西洋の知識を吸収することにのみ執着し、八雲が愛した「日本の心」には無関心に見えました。
この温度差が、彼の孤独感を深めました。
2. 西洋化への絶望
八雲が日本に求めていたのは、西洋化される前のスピリチュアルで伝統的な姿でした。
しかし、当時の熊本は急速な近代化の渦中にありました。
*「文明」への嫌悪
煙を上げる煙突や、西洋の真似事をする人々の姿を見て、八雲は「日本も西洋の悪い部分を真似し始めている」と嘆きました。
*疎外感
彼は次第に、自分が愛した日本が消えていく恐怖を感じるようになり、それが熊本という土地への不満へと繋がっていきました。
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3. 家庭環境と経済的プレッシャー
セツの養父母まで呼び寄せたことは、八雲にとって精神的な支えであると同時に、大きな責任でもありました。
*大家族の扶養
家族全員を養うためには、高給を維持する必要がありました。
しかし、学校側との契約更新や給与面での折り合いがつかなくなり、将来への不安が増大しました。
*長男・一雄の誕生
1893年に長男が誕生したことで、八雲の「教育環境」に対するこだわりが強まりました。
より良い環境、そしてより安定した職を求めて、新天地(神戸)へ目を向けるようになったのです。
〇まとめ
八雲にとって熊本での3年間は、「日本の近代化という現実に直面し、理想が打ち砕かれた期間」であったと言えます。
松江で抱いた幻想が、熊本の厳しい現実によって剥ぎ取られ、彼はより静かな、あるいはより自身の執筆活動に専念できる場所を求めざるを得なくなりました。
結果として、この「破綻」があったからこそ、彼は神戸を経て東京へと移り、後に世界的な名著となる作品群を残すことになったのは、皮肉な歴史の巡り合わせかもしれません。

