徳川家斉(とくがわ いえなり)は、江戸幕府11代将軍として1787年から1837年までの約50年間(在位期間としては歴代最長)にわたり統治しました。
10代将軍の徳川家治の死後、わずか17歳で将軍職を継いだ家斉の治世は、幕府の衰退が加速した時期として歴史的に重要です。
幕府衰退の主要因
1. 放漫財政と経済政策の失敗
家斉時代の最大の問題は財政運営でした。
彼の治世下では、
・過度の奢侈と浪費
家斉自身が贅沢な生活を好み、多額の出費を伴う大名行列や祭礼、公家との交流に多くの費用を費やしました
・天明、天保の大飢饉への対応不足
天明の飢饉(1783-87)や天保の飢饉(1833-37)などの自然災害時の救済措置が不十分で、民衆の困窮が深刻化しました
・改革の失敗
松平定信による寛政の改革や水野忠邦による天保の改革など、経済建て直しの試みが一時的効果しか生まず、根本的解決に至りませんでした
・貨幣改鋳の乱発
財政難を解決するため、金貨の品位を下げる改鋳を繰り返し、インフレを招きました
2. 統治体制の弛緩と腐敗
・側用人政治
松平定信失脚後、将軍家斉は政務を側用人に一任し、政治から遠ざかりました。
これにより幕閣内の派閥争いが激化し、一貫した政策実行が困難になりました
・賄賂政治の蔓延
役職の売買や贈収賄が常態化し、行政の腐敗が進行しました
・家斉の政治的無関心
趣味や側室との生活を優先し、55人もの子をもうけるなど、政務よりも私生活に重きを置きました
3. 外圧への対応の遅れ
・鎖国政策の限界
ロシアやイギリスなど西洋列強の接近に対し、旧来の鎖国政策を頑なに維持し、近代化への対応が遅れました
・異国船打払令
1825年の異国船打払令に代表される強硬外交姿勢が、後の開国要求に対する柔軟な対応を困難にしました
4. 階級制度の崩壊
・商人の台頭
町人文化の隆盛と商人の経済力増大により、武士の権威が相対的に低下しました
・下級武士の困窮
インフレによる俸禄の実質価値低下で、多くの武士が貧困に陥りました
5. 諸大名の統制力低下
・譜代大名の弱体化
家斉は多くの譜代大名家に対する介入を強め、その自立性を損なわせたことで、幕府を支える基盤を弱めました
・外様大名の台頭
特に薩摩藩や長州藩など一部の外様大名が経済的、軍事的に力をつけ、後の幕末動乱の原動力となりました
*まとめ
家斉の治世における幕府衰退の最大の原因は、単に一つではなく、上記の複合的要因が互いに影響し合った結果です。
しかし、特に重大だったのは、長期政権でありながら将軍自身が政治に無関心であったことと、その結果としての財政破綻でした。
この時期に適切な改革を実施し、近代化への道筋をつけられなかったことが、後の開国と幕府崩壊への直接的な道筋を作ったと言えるでしょう。
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徳川家斉の側室と子孫について
徳川家斉は非常に女性好きなことで知られ、江戸時代の将軍としては特に多くの側室と子供をもうけました。
〇側室の数
徳川家斉には正室の一条富子(いちじょう とみこ)のほか、40人前後の側室がいたと言われています。
これは歴代徳川将軍の中でも突出した数です。
主な側室には
・盧橘(ろきつ)- 有名な側室の一人
・春日局(かすがのつぼね)
・天璋院篤姫(てんしょういん あつひめ)は家斉の子、家定の正室となりました。
〇子供の数
家斉の子供の総数については、
*総数: 55人と言われることが多いですが、諸説あり50~60人程度との記録があります。
*男子: 26~27人
*女子: 28~30人
この子供の数は江戸幕府15代将軍の中で最多であり、「公家の中の天皇、将軍の中の家斉」と揶揄されるほどでした。
〇政治への影響
この多数の子女は政治的にも大きな影響を与えました。
1. 養子政策
多くの大名家に養子を送り込むことで、諸大名との縁戚関係を強化しました。
2. 婚姻政策
娘たちを重要な大名家に嫁がせることで、政治的な繋がりを維持しました。
3. 財政負担
多くの子女とその家族を扶養するための経費は幕府財政に大きな負担となりました。
〇将軍位の継承
家斉の子からは複数の将軍が誕生しています。
・12代将軍 徳川家慶(いえよし)
・13代将軍 徳川家定(いえさだ)
・14代将軍 徳川家茂(いえもち)※孫にあたる
〇余談
家斉の子孫の多さは当時から有名で、「家斉公のご落胤(らくいん:非嫡出子)なら江戸中探せばいくらでも出てくる」という言葉が残っているほどです。
また、これほど多くの側室を抱え、子供をもうけたことは、幕府の権威誇示の一面もありましたが、同時に幕府財政の圧迫要因にもなり、先ほど述べた幕府衰退の一因となりました。

