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文化人 幕臣 大田南畝の生涯

大田南畝(おおた なんぽ)は江戸時代中期から後期にかけて活躍した狂歌師 文人であり、幕臣でもありました。

彼の生涯は、学問と風流、そして破天荒な私生活が交錯する非常に興味深いものでした。

〇幼少期と家族背景
・生年:寛延2年(1749年)、江戸牛込仲御徒町にて誕生

・父:大田正智(幕府の下級武士・御徒士)

・母:利世(幕臣の娘で教育熱心な女性)

・家禄は70俵5人扶持、現代で言えば年収300万円程度の低所得層

・幼少期から漢学、儒学を学び、早熟な才能を発揮

〇文人としての台頭
・18歳で『明詩擢材』を刊行し文壇デビュー

・19歳で狂詩集『寝惚先生文集』を出版、平賀源内が序文を寄せて話題に

・狂歌師として「四方赤良(よものあから)」の名で活動

・蔦屋重三郎や朱楽菅江らと交流し、江戸の文化サロンの中心人物に

〇幕臣としてのキャリア
・幕府の御徒士として出仕するも、勤務は月数回程度で比較的自由な時間が多かった

・後年、学問吟味で首席合格し、支配勘定に昇進

・長崎や大阪への転勤も経験し、晩年まで幕府に仕え続けた

〇妻の理与との結婚と家庭
・23歳で下級幕臣の娘、理与(りよ)と結婚

・一男二女をもうけるが、長女は夭折

・理与は貧困生活や夫の奔放な私生活にも耐えたとされる

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〇吉原通いと遊女の三保崎との関係
・蔦屋重三郎との交流を通じて吉原遊郭に出入りするようになる

・天明5年(1785年)、松葉屋の新造三 保崎(みほざき)と出会う

・翌年、三保崎を身請けし「お賤(しづ)」と改名させる

・自宅を増築して「巴人亭」と名付け、正妻の理与とお賤を同居させるという異例の生活を始める

〇妾との同居生活とその終焉
・この妻妾同居生活は約8年間続いた

・寛政5年(1793年)、お賤が30歳前後で病死

・理与はその後も南畝を支え続け、寛政10年(1798年)に亡くなる

〇晩年と死去
・晩年は「蜀山人(しょくさんじん)」の号で狂歌活動を再開

・文化人としての名声は高まり続け、随筆や詩集も多数刊行

・文政6年(1823年)、75歳で死去

※南畝の生涯は、学問による立身出世と、江戸文化の粋を極めた風流人としての顔、そして常識を逸脱した私生活が混在するものでした。

特に、遊女を身請けして正妻と同居させるという行動は、当時としても異例であり、彼の自由奔放な精神を象徴するエピソードです。