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朝ドラ「あんぱん」柳井崇さんの弟 千尋さんの生涯

朝ドラ「あんぱん」のモデルの一人であるやなせたかしさんの弟、千尋さんの生涯について詳しく説明します。

千尋さん(本名:柳瀬千尋)は、1921年6月にやなせたかしさんの2歳年下の弟として誕生しました。

しかし、千尋さんが3歳になる前の1924年5月に、新聞社特派員として赴任中だった父親がアモイで急死します。

その後、千尋さんは父親の兄(伯父)である柳瀬寛の養子として引き取られ、高知県で開業医を営む裕福な伯父夫婦のもとで、本当の子どものように愛情を注がれて育ちました。

やなせさん自身も、母親の再婚を機に同じ伯父のもとに引き取られ、兄弟は同じ学校に通い、「お父さん、お母さん」と伯父夫婦を呼んでいました。

幼少期の千尋さんは体が弱かったため、赤い着物を着せられ女の子のように育てられた時期もあったようです。

しかし、成長するにつれて文武両道で、成績優秀、運動も得意な青年へと成長しました。

中学では柔道二段の腕前を持ち、兄のやなせさんとは対照的に、当時からエリートコースを歩みます。

旧制城東中学校(現在の追手前高校)を経て、京都帝国大学法学部に進学しました。

大学では友人たちと議論を交わすなど、活発な学生生活を送っていましたが、女性に対しては奥手な一面もあったようです。

やなせさんは、千尋さんのことを「一族の輝く星」だと誇りに思っていました。

太平洋戦争
太平洋戦争が激化する中、千尋さんは学徒出陣の対象となります。

当時の大学は通常4年制でしたが、兵力不足のため、千尋さんの卒業は半年繰り上げられ、1943年9月に京都帝国大学法学部を卒業しました。

卒業後すぐに海軍予備学生に志願し、神奈川県三浦郡武山村の武山海兵団に入団します。

約4ヶ月間の基礎訓練の後、久里浜の対潜学校で聴音技術を学びました。

これは、水中からの音を感知し、潜水艦や水雷艇などの敵艦艇の接近を早期に発見する、非常に重要で危険な任務でした。

その後、1944年5月に海軍少尉に任官された千尋さんは、駆逐艦「呉竹」の推測室(対潜探知室)に配属されます。

一部で特攻隊員や人間魚雷「回天」の搭乗員だったという情報もありますが、これは史実ではありません。

戦死
1944年12月30日、駆逐艦「呉竹」は、フィリピン沖のバシー海峡でアメリカ軍の潜水艦が発射した魚雷により沈没。

千尋さんは艦長以下140人とともに、わずか23歳の若さで命を落としました。

バシー海峡は、太平洋戦争末期には「魔の海峡」「輸送船の墓場」と呼ばれ、多くの日本兵が犠牲になった場所です。

やなせさんが千尋さんの死を知ったのは、戦後復員してからのことです。

やなせさんが目にしたのは、遺骨もなく、骨壺の中に「海軍中尉柳瀬千尋」と書かれた木札が一枚だけだったという衝撃的な光景でした。

この弟の死は、やなせさんのその後の人生に多大な影響を与え、「なぜ自分だけが生き残ったのか」という問いを抱えながら生きる日々を送ることになります。

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やなせたかしさんが生み出した「アンパンマン」には、「本当の正義とは何か」という普遍的なメッセージが込められていますが、そのテーマのきっかけの一つには、最愛の弟・千尋さんとの別離があったと言われています。

やなせさんは、アンパンマンを描くたびに弟を思い出し、胸が苦しくなると語っています。

亡くなる直前には、意識不明の状態で「ちひろ、ありがとう」とつぶやいたとも伝えられています。

千尋さんの生涯は、戦時下の若者たちが抱えていた葛藤や、理不尽な形で命を奪われた悲劇を物語っています。