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松前藩の琥珀密輸 一橋治済の陰謀 田沼失脚

小説やドラマなどで描かれるような、田沼意次の失脚に関するドラマチックな陰謀説、史実と比較して説明します。

史実における田沼意次の失脚原因
史実において田沼意次の失脚は、「松前藩の琥珀密輸画策」や「一橋治済の陰謀」といった具体的な裏工作が直接的な原因とされたという明確な証拠は見つかっていません。

田沼意次の失脚は、複数の要因が複雑に絡み合って起こりました。

主な要因としては以下の点が挙げられます。

1.将軍徳川家治の死去
田沼意次は、第10代将軍徳川家治の絶大な信任を得ていました。

しかし、天明6年(1786年)に家治が死去したことで、田沼は最大の後ろ盾を失いました。

これが失脚の直接的な引き金となったのは間違いありません。

2.田沼意知(長男)の暗殺
天明4年(1784年)、田沼意次の長男で若年寄を務めていた田沼意知が、江戸城中で旗本の佐野政言に斬りつけられ、その傷がもとで死亡しました。

この事件は、田沼政権への不満が高まっていた中で、反田沼勢力に勢いを与えることになりました。

3.天明の飢饉と社会不安
天明3年(1783年)の浅間山噴火を皮切りに、天明年間には全国的に飢饉や冷害が頻発し、多くの餓死者が出ました。

米価が高騰し、江戸や大阪などでは打ちこわしが頻発するなど、社会不安が拡大しました。

これにより、庶民の間で「田沼政治が悪い」という不満が高まり、田沼に対する批判が強まりました。

4.反田沼勢力(特に松平定信)の台頭
田沼の改革的な政策は、従来の幕府の秩序や既得権益を守ろうとする保守派(譜代大名や旗本など)からの反発を招いていました。

将軍家治の死去後、白河藩主の松平定信(徳川吉宗の孫)が老中首座となり、反田沼勢力の中心となって田沼追い落としを図りました。

定信は、田沼が賄賂政治を行っていたとして厳しく糾弾し、田沼への処分を進めました。

5.賄賂政治の批判
田沼時代には、確かに賄賂が横行していたという批判があり、当時の落書きなどにも風刺されました。

田沼自身やその周辺が収賄や不正を行っていたという見方も当時からありました。

これが田沼政治の負のイメージとして定着し、失脚の口実として利用されました。

蝦夷の上地と松前藩の琥珀密輸、一橋治済の陰謀について
・蝦夷の上地(直轄化)
田沼意次政権は、北方におけるロシアの南下などの国際情勢を鑑み、蝦夷地(現在の北海道)の重要性を認識し、その開発や直轄化を計画していました。

実際に、天明年間には最上徳内らが蝦夷地を探検するなど、具体的な調査が行われています。

しかし、これはあくまで国家的な政策の一環であり、田沼失脚によって一時中断されたものの、その後の幕府によって再び進められることになります。

これが失脚の直接的な原因となったという史実はありません。

・松前藩の琥珀密輸
史実において、松前藩が琥珀の密輸を画策し、それが田沼意次の失脚に結びついたという具体的な記録や有力な説は確認できません。

密貿易自体は江戸時代を通じて様々な地域で行われていた可能性はありますが、それが田沼失脚の主要因として語られることは稀です。

・一橋治済の陰謀
一橋治済(徳川家斉の父)は、将軍の生父として政治に大きな影響力を持とうとした人物であり、松平定信と連携して田沼意次を失脚させようとしたという説は存在します。

特に、家治の死後、家斉が将軍に就任するにあたり、治済が定信と結託して田沼を排除したという見方は強いです。

しかし、この「陰謀」が「琥珀密輸画策」といった具体的な不正行為を仕組んだという史料的な裏付けは薄いです。

むしろ、将軍交代という政治的権力の移行期における、政敵排除のための権力闘争と捉えるのが一般的です。

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まとめ
小説やドラマで描かれるような、蝦夷の上地や松前藩の琥珀密輸、一橋治済の陰謀といった具体的な謀略が田沼意次の失脚の直接的で唯一の原因であった、という史実はありません。

史実では、将軍家治の死去という最大の支えの喪失、長男意知の暗殺、天明の飢饉による社会不安、そして松平定信を中心とする反田沼勢力の政治的攻勢が複合的に作用し、田沼意次は失脚に至りました。

これらの要素に加えて、田沼政治が「賄賂政治」であるという批判が、失脚を正当化するための材料として利用された側面も大きいと考えられます。

フィクションでは物語を面白くするために、特定の事件や人物の陰謀が強調されることがありますが、史実ではより複雑な背景があったことを理解しておくことが重要です。