田沼意次の時代(1767-1786)について、賄賂と経済政策の実態、そして失脚の経緯について説明させていただきます。
〇田沼時代の実態
幕府の財政改革として、田沼意次は従来の統制的な経済政策から、商工業の発展を積極的に支援する政策へと転換しました。
具体的には、
1. 株仲間の公認と特権付与
2. 新田開発の奨励
3. 鉱山開発の推進
4. 諸国の特産品開発支援
これらの政策により、確かに役人による賄賂の授受は増加しましたが、これは単なる腐敗というよりも、当時としては新しい「行政手数料」的な性格を持っていたという解釈もあります。
商人たちは新規事業の許可を得るために役人に金品を贈り、それが結果として経済の活性化にもつながったという側面があります。
蔦屋重三郎のような浮世絵版元が活躍できたのも、このような経済的な自由化政策があったからこそでした。
〇失脚の経緯
田沼の失脚には以下のような要因が重なりました。
1. 天明の大飢饉(1782-1787)による社会不安
飢饉による死者が多数出る中、贅沢な暮らしを続ける商人層への批判が高まる。
米価高騰に対する対策の遅れを非難される。
2. 政敵からの批判
松平定信を中心とする反田沼派の台頭。
賄賂政治への批判を利用した攻撃。
3. 決定的な事件
1784年、田沼の実子意知が勘定奉行荒井総左衛門に暗殺される。
この事件により、田沼家の権威が大きく失墜。
1786年、将軍家治の死去に伴い、松平定信が台頭し、田沼意次は完全に失脚することになります。
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その後、松平定信による寛政の改革が始まり、田沼時代の経済的自由化政策は大きく転換されることになりました。
※現代の歴史研究では、田沼の政策を単なる腐敗として否定的に評価するのではなく、18世紀後半の社会経済の発展に対応しようとした積極的な改革として再評価する傾向にあります。
しかし、その手法があまりに急進的であり、既得権益層の反発を招いたことも事実です。
また、飢饉への対応の遅れは、商工業重視の政策の負の側面として指摘されています。
結果として、田沼失脚後の松平定信による改革では、農本主義的な政策への回帰が図られることになりました…

