田沼意次と松平定信の歴史的評価は、それぞれの施策がもたらした影響から近年見直されつつあります。
田沼意次は積極的な経済政策が評価される一方、賄賂政治として批判も受けました。
一方、松平定信の改革は、財政再建には一定の効果があったものの、厳しい倹約令による経済の停滞が問題視されています。
■田沼意次(1719年?1788年)
田沼意次は、江戸時代中期の老中として、積極的に経済政策を推進しました。
彼の政策は「重商主義」と評され、商業の発展を重視した点が特徴です。
〇積極的な経済政策
・株仲間の公認と運上金(税金)徴収
同業者組合である株仲間を積極的に公認し、営業の独占を認めました。
これにより、幕府は運上金や冥加金といった安定した財源を確保しました。
・蝦夷地(現在の北海道)の開発
蝦夷地を幕府の直轄地とし、昆布やニシンなどの交易を拡大しようとしました。
・印旛沼、手賀沼の干拓
新田開発を進め、米の増産を図りました。
これは、農業生産の向上を目指す一方で、農村の商業化も促進しました。
・長崎貿易の拡大
銅などの主要輸出品の生産を統制し、貿易の活性化を図りました。
〇評価の変遷
*従来の評価
従来の歴史学では、賄賂政治や不正の温床を作った人物として否定的に見られることが多かったようです。
*近年の評価
近年では、市場経済の発展を促し、商業資本を積極的に活用しようとした先駆的な人物として再評価されています。
彼の施策は、貨幣経済が浸透しつつあった当時の社会に対応しようとするものであったと捉えられています。
■松平定信(1759年?1829年)
松平定信は、田沼意次の失脚後に老中となり、「寛政の改革」を断行しました。
彼の改革は、「重農主義」と「質素倹約」を基本方針としており、田沼の政策とは対照的でした。
〇質素倹約の推進
・倹約令の徹底
武士から町人に至るまで、贅沢を厳しく禁じ、質素な生活を強制しました。
・風紀の取り締まり
歌舞伎や出版物などの風俗を取り締まり、社会の綱紀粛正を図りました。
・農村復興
「囲米(かこいまい)」制度を設け、飢饉に備えるための穀物を備蓄させました。
これは、農村の安定を最優先する政策でした。
〇評価の変遷
*従来の評価
幕府財政を再建し、綱紀粛正を行った名君として肯定的に評価されることが多かったようです。
*近年の評価
経済活動を停滞させた側面が批判的に見直されています。
厳しい倹約令は、人々の消費意欲を削ぎ、商業活動を縮小させました。
また、武士の規律を正すために発令された厳しい武家諸法度や、朱子学以外の学問を禁じた「寛政異学の禁」は、思想統制として批判されることもあります。
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◎まとめ
田沼意次と松平定信の評価は、時代の変化とともに見直されてきました。
・田沼意次
近代的な経済感覚を持った改革者として再評価されつつあります。
しかし、その政策の副作用として賄賂政治が横行したことも事実です。
・松平定信
幕府の財政再建と綱紀粛正には一定の成果を上げましたが、市場経済の発展を阻害し、閉鎖的な社会を作り出した守旧派としての側面が近年強調されるようになりました。
両者の歴史的評価は、経済発展を優先するか、社会の安定と財政再建を優先するかという、当時の幕府が直面していた根本的な課題を反映しているといえるでしょう。

