【PR】
メールサポートあり
30日で弾けるギター上達講座

蔦屋重三郎 日本橋に進出

大河ドラマで描かれているように、蔦屋重三郎が日本橋に進出したのは史実です。

彼は吉原で出版業を開始し、その後、江戸の出版の中心地であった日本橋に拠点を移すことで、その事業を飛躍的に発展させました。

蔦屋重三郎の日本橋進出
〇吉原での創業と成功の足がかり
蔦屋重三郎は、宝暦7年(1757年)に喜多川氏の養子となり、安永2年(1773年)に新吉原で貸本、小売りの店舗を開業します。

当初は吉原の案内本である「吉原細見」の販売から事業を開始し、その編集、発行にも携わって、吉原での地盤を固めていきました。

この吉原での経験が、彼のマーケティングセンスや顧客ニーズを掴む力に繋がっていきます。

〇日本橋への進出
天明3年(1783年)、重三郎は日本橋通油町(とおりあぶらちょう)に進出し、耕書堂を開業しました。

これは、単なる店舗の移転以上の大きな意味を持っていました。

・出版業の中心地への参入
当時の日本橋は、多くの有力な版元(出版社)が軒を連ねる、江戸の出版業のメッカでした。

ここに店を構えることは、蔦屋が一流の版元として認められるための必須条件でした。

・既存の地本問屋の株の獲得
日本橋への移転は、既存の地本問屋である丸屋小兵衛の店舗と蔵を買い取ることによって行われました。

これにより、丸屋が持っていた地本問屋の株も手中に収めることができ、業界内での地位を確立する上で非常に重要でした。

・吉原店の継続
日本橋に進出した後も、吉原五十間道の店は「吉原支店」のような形で残し、手代に任せて営業を続けていました。

〇日本橋での飛躍
日本橋に進出してからは、黄表紙や洒落本といった娯楽性の高い「戯作(げさく)」の出版に力を入れ、瞬く間に人気を博しました。

喜多川歌麿や東洲斎写楽といった才能ある絵師や、山東京伝などの人気作家を発掘、プロデュースし、数々のベストセラーを生み出しました。

彼の企画力やマーケティング戦略は、現代のメディア王とも称されるほど卓越していました。

【PR】
歌わなくていい ギターソロできめるから

須原屋との関係
大河ドラマで須原屋が日本橋への出店を勧める場面がありますが、史実としては、須原屋と蔦屋重三郎は、江戸の出版業界において対照的な存在でした。

・須原屋茂兵衛
須原屋は、江戸前期から続く老舗の書物問屋で、幕府の御用書肆(ごようしょし:幕府の書籍を扱う店)も務めるなど、格式ある出版業を営んでいました。

主に「武鑑(ぶかん)」のような堅い書物を扱っており、丸の内をテリトリーとしていました。

・蔦屋重三郎
一方、蔦屋は重三郎が一代で起業した新興勢力でした。

吉原を拠点に「吉原細見」などの情報誌や、黄表紙、洒落本といった庶民向けの娯楽書を中心に扱っていました。

須原屋と蔦屋重三郎の関係について、直接的に須原屋が蔦屋重三郎に日本橋への進出を勧めたという明確な史料は、私の知る限りでは見当たりません。

しかし、当時の出版業界の中心であった日本橋に進出することの重要性は、業界の誰もが認識していたことでしょう。

須原屋は、北尾重政(絵師)の実家であり、北尾重政は蔦屋重三郎と組んで『一目千本』などの作品を刊行しています。

このように、個々の繋がりはあったものの、須原屋と蔦屋はそれぞれ異なる分野で成功を収め、ある意味で競合する関係にあったと言えます。

大河ドラマにおける「須原屋が日本橋進出を勧める」という描写は、物語の構成上、蔦屋重三郎の才能を評価し、その飛躍を後押しする存在として描かれている可能性が考えられます。

まとめ
蔦屋重三郎が日本橋に進出したのは間違いなく史実であり、彼の出版業における大きな転機となりました。

日本橋への進出は、彼が「江戸のメディア王」として大成するための重要な一歩だったと言えます。

須原屋との直接的な関係性については、史実において明確な「勧め」があったかどうかは不明ですが、当時の出版業界におけるそれぞれの位置づけを理解すると、より深くドラマを楽しめるかと思います。