東洲斎写楽がわずか10カ月で消息を絶ち、「芸術上の崩壊現象」とまで酷評されるようになった背景には、版元である蔦屋重三郎の「功」と「罪」が密接に関わっていると考えられます。
蔦屋重三郎の「功」
蔦屋重三郎は、単なる出版人ではなく、企画、製作、流通、販売までを手がける江戸時代の稀代のプロデューサーでした。
彼は、その卓越したプロデュース力で、喜多川歌麿や東洲斎写楽といった才能を見出し、世に送り出しました。
・才能の発掘と抜擢
無名だった写楽の才能を見抜き、大胆な構図とリアルな描写を特徴とする役者絵をデビュー作として一挙に28枚も刊行させました。
これは当時としては異例のことで、写楽の存在を世に強く印象付けました。
・革新的なプロモーション
写楽の作品は、背景に黒雲母摺りを用いた特別仕様の大判で、従来の役者絵とは一線を画すものでした。
このような豪華な仕様は、写楽の絵を際立たせ、話題性を呼ぶための蔦屋の戦略であったと言えます。
また、短期間に多数の作品を一挙に刊行する手法も、写楽への注目を集めるためのものでした。
・「大首絵」の流行
蔦屋は、役者の顔をクローズアップして描く「大首絵」という手法を積極的に採用し、写楽の作品でその魅力を最大限に引き出しました。
写楽の大首絵は、役者の個性を際立たせ、その表情や仕草から役柄や感情を読み取らせる画期的なものでした。
※蔦屋重三郎がいなければ、写楽の作品は世に出ることなく、その才能が日の目を見ることもなかったでしょう。
その意味で、写楽を「謎の浮世絵師」として後世に語り継がれる存在にした功績は計り知れません。
蔦屋重三郎の「罪」と「芸術上の崩壊現象」
しかし、その一方で、蔦屋重三郎の商業的な戦略が、写楽の才能を「使い潰した」という側面も指摘されています。
これが「芸術上の崩壊現象」とまで酷評される原因になったと考えられます。
*過度な量産体制と制作負荷
写楽はわずか10カ月の間に約145点もの作品を発表しました。
この短期間にこれほどの数の作品を制作することは、絵師に多大な負荷をかけるものです。
特に、写楽は舞台を見て描くことを得意としていたにもかかわらず、後半の作品では、舞台を見ずに描かせたのではないかという推測もあります。
*画風の変化と「芸術性の衰退」
写楽の作品は、活動期間に応じて数期に分けられます。
初期の作品群(第一期、第二期)は、その大胆なデフォルメと役者の個性を鋭く捉えた描写で高く評価されています。
しかし、第三期、第四期と進むにつれて、初期に見られた写楽独自の芸術性が急速に衰退したと指摘されています。
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*第三期以降の変化
それまで写楽は、上位役者から下位役者まで、ある意味網羅的に役者を描いていましたが、第三期になると人気役者を中心に描く方式に変わったと言われています。
また、写楽特有の大げさな表現や仕草、大胆で力強い線が失われ、写楽らしからぬ絵のトーンになったとされます。
*商業的成功への圧力
蔦屋は、歌麿の美人画で成功を収めた後、写楽という新たな才能に大きな期待を寄せ、商業的成功を目指して猛烈なペースで作品を刊行させました。
この商業的なプレッシャーが、写楽の制作意欲や独創性を削いでしまった可能性があります。
まるで、ヒットを量産するために、画家の自由な創作を制限し、決められた枠の中で描かせるような状況が生まれたのかもしれません。
まとめ
蔦屋重三郎は、写楽という天才を見出し、その才能を世に知らしめた最大の功労者である一方で、短期間での過度な量産体制や商業的な要求によって、写楽の創作活動に大きな負荷をかけ、結果として彼の「芸術上の崩壊現象」を招いてしまったとも言えます。
写楽がなぜ忽然と姿を消したのか、その真相は今も謎に包まれていますが、蔦屋重三郎との関係性や、当時の出版界の状況を考慮すると、その短い活動期間と劇的な終焉の背景には、このような「功罪」が複雑に絡み合っていたと推測されます。

