松平定信が行った寛政の改革は、綱紀粛正と財政再建を目的とし、その過程で「まるで共産主義国家?」とも評されるような厳しい倹約奨励と文化統制が行われました。
特に文化の破壊につながった主な政策と影響は以下の通りです。
1. 寛政異学の禁(学問、思想の統制)
・内容
1790年(寛政2年)、幕府公認の学問所である聖堂学問所(後の昌平坂学問所)において、朱子学を正学とし、朱子学以外の陽明学や古学などの講義を禁止しました。
・影響
これは学問所内での制限でしたが、諸藩の藩校もこれに倣う傾向が広がり、結果的に朱子学以外の学問、思想を抑圧し、自由な学問研究の風潮を萎縮させました。
海防学者の林子平ら在野の論者による幕府批判も禁止され、処罰されました。
2. 出版統制(文学、芸術への干渉)
・内容
庶民文化の隆盛に伴い流行していた洒落本や黄表紙といった風俗を乱す恐れがある書物や、政治批判と見なされる内容の出版を厳しく取り締まりました。
好色本(遊里などを舞台とした浮世草子)の段階的な絶版。
徳川家に関する本の出版禁止。
印刷物を地本問屋(出版元)同士で事前に検閲させる相互検閲(自主規制)を義務付け。
・影響
これにより、洒落本作者の山東京伝や黄表紙作者の恋川春町、版元の蔦屋重三郎といった当時の代表的な文化人が処罰され、庶民の娯楽や自由な文化活動が大きな打撃を受けました。
狂歌では定信の政策を皮肉るものも流行しました。
3. 倹約令の徹底と風紀の粛清
・内容
緊縮財政の徹底のため、庶民の贅沢を細部にわたり禁止、制限する倹約令を頻繁に発令しました。
着物の素材、飲食、観劇、読書などの娯楽に対しても厳しく制限を加えました。
また、公衆浴場での混浴禁止など、風紀の取り締まりも徹底しました。
・影響
華やかな田沼時代に花開いた江戸文化の活気が失われ、庶民のささやかな楽しみまで奪われたことで、経済が停滞した面もありました。
定信の厳格すぎる姿勢は、庶民だけでなく幕閣の反感も買い、改革は短期間で終了しました。
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※松平定信は、「文武奨励」を掲げましたが、その実態は武士には質実剛健を求め、庶民には華美な文化を禁じて質素倹約を強制するものでした。
この政策は、幕府権威の回復と財政再建という目的はあったものの、自由な思想や文化を抑圧し、江戸の文化の発展を一時的に大きく停滞させたという点で、「文化破壊」と評されることがあります。

