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ラフカディオ・ハーン 小泉八雲 生い立ち

朝ドラ「ばけばけ」のモデルであるラフカディオ・ハーン(日本名:小泉八雲)の生い立ちと日本への渡航経緯について、詳しく説明します。

■ラフカディオ・ハーンの生い立ち
ラフカディオ・ハーンは、波瀾万丈な生い立ちを持ち、その後の日本への関心にも影響を与えています。

*誕生と幼少期
1850年6月27日、ギリシャのイオニア海に浮かぶレフカダ島(旧名:サンタ・マウラ島)で生まれました。

父はアイルランド出身のイギリス軍医、母はギリシャ人でした。

彼のミドルネーム「ラフカディオ」は、レフカダ島のギリシャ名「レフカダ」に由来します。

*天涯孤独へ
幼い頃に両親が離婚し、さらに母親が去ります。

その後、父の親戚に引き取られアイルランドのダブリンで育ちましたが、裕福ではなかった親戚の家を離れ、16歳頃までには天涯孤独となります。

*視力の喪失
16歳の頃、学校での事故により左目を失明。

以降、生涯にわたり視力に問題を抱えることになります。

*アメリカでの生活
19歳の時(1869年)にアメリカ合衆国へ渡ります。

オハイオ州シンシナティやルイジアナ州ニューオーリンズなどで、貧困の中で新聞記者として働き始め、その文才を開花させました。

彼は非常に熱心な記者であり、文学者としても活動しました。

ニューオーリンズ時代には、カリブ海のフランス領西インド諸島に渡り、2年間の取材経験を持ちます。

この時、異文化への深い関心と、彼独特の「詩的散文」の作風を培いました。

■日本に来ることになった経緯
ハーンが極東の島国である日本へ渡航することになった背景には、主に以下の理由があります。

*日本文化への強い憧れと魅了
アメリカ時代に見た万国博覧会での日本の展示や、英訳された日本の古典(特に『古事記』など)を通して、日本の文化や精神性に深く魅了されました。

彼は、急速に西洋化が進む明治の日本の中に、失われつつある「古き良き理想の東洋」を見出そうとしていたとも言われています。

*出版社の通信員としての渡航
1890年(明治23年)、ハーンはアメリカの出版社の通信員(特派員)という立場で日本へ渡航します。

彼の目的は、日本に関する記事を本国へ送ることでした。

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*「お雇い外国人」としての転身
来日後、すぐに通信員の職を離れ、島根県松江の尋常中学校・師範学校の英語教師として「お雇い外国人」の職を得ました。

これは、彼の友人であったバジル・ホール・チェンバレン(東京帝国大学教授)の推薦によるものでした。

ハーンは、こうして40歳で初めて日本に上陸し、松江で後の妻となる小泉セツと出会い、日本で骨を埋める決意を固めて小泉八雲として帰化するに至ります。