ミュージシャン 大滝詠一さんの功績は、日本のポップスの在り方を決定づけたことや、多くの名曲を提供したことなどが挙げられます。
ふるさと編
1948年7月28日、岩手県江刺郡梁川村(現・奥州市江刺梁川)に生まれる。
母子家庭で育ち、小学校・中学校で転校を繰り返す。
小学5年の夏、コニー・フランシスの「カラーに口紅」に衝撃を受けてアメリカンポップスに傾倒する。
中学入学後、ラジオクラブに入り、米軍極東放送やニッポン放送の番組を聴くようになる。
レコード収集を始め、エルヴィス・プレスリーやビーチ・ボーイズなどの音楽を分析的に聴くようになる。
1964年、岩手県立花巻北高等学校に入学。
下宿で1人暮らしをしますが、学費を全部レコードにつぎ込んでいたために学費未納により1年で退学させられる。
岩手県立釜石南高等学校(現:岩手県立釜石高等学校)に編入。
入学直前、FENでビートルズを知り、以降リバプール・サウンド全般を買いまくる。
釜石南高編入後、初めてバンド「スプレンダーズ」を組み、ドラムを担当する。
上京後
1968年に早稲田大学第二文学部に入学。
布谷氏を通じて交友があった中田佳彦から細野晴臣を紹介されて意気投合。
大瀧・中田・細野の3人で定期的にポップスの研究会を開く。
1969年、細野が参加していたバンド「エイプリル・フール」の解散直前に、細野と松本隆によって計画されていた新バンド「ヴァレンタイン・ブルー」(後の「はっぴいえんど」)に加入を要請され受諾する。
1970年、「はっぴいえんど」としてアルバム『はっぴいえんど』でデビューする。
1971年にはソロ活動も開始しました。はっぴいえんどでは、細野晴臣や松本隆と共に日本語ロックの先駆者となりました。
大滝詠一さんは、1973年に自身のレーベル「ナイアガラ」を立ち上げ、山下達郎や大貫妙子が所属していたバンド、シュガー・ベイブのプロデュースなども行いました。
ナイアガラ・サウンドは、洋楽の影響を受けつつも独自のポップセンスを発揮し、多くのファンや後続のミュージシャンに影響を与えました。
大滝詠一さんは、1981年にはっぴいえんど時代の盟友、松本隆と組んだソロアルバム『A LONG VACATION』がミリオンセラーを記録し、大きな商業的な成功を収めました。
このアルバムは、永井博によるジャケットのアートワークや、「君は天然色」「恋するカレン」などのヒット曲が80年代前半のお洒落なカルチャーを象徴するものとなりました。
大滝詠一さんは、森進一、松田聖子、小泉今日子、薬師丸ひろ子などにもとびきりの楽曲を提供しました。
そのどれもが日本のポップミュージック史に残る名曲です。
>> A LONG VACATION 40th Anniversary Edition
また、ファースト・アルバムの『大瀧詠一』は、フォーク、ロックからソウルミュージックまで、ありとあらゆるアメリカの音楽を消化して完全に自分だけの表現にしており、
渋谷系やサニーデイ・サービス(曽我部恵一)、くるり、踊ってばかりの国、森は生きているといった現在活躍しているミュージシャンも、大滝詠一さんからの影響を強く受けています。


