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吉原遊郭とは?

吉原遊郭は江戸城からかなり離れた田んぼの中にあったことが分かっている。遊郭から帰る客が名残惜しく見返ったという「見返り柳」は有名。

幕府が江戸で唯一公認した遊郭が吉原、街の作りから幕府の思惑が見えてくる。入り口までの道が急にカーブしている。目隠しのために曲げたカーブといわれている。

大通りから吉原遊郭が丸見えになると風紀上よろしくないと、町奉行に曲げさせられたというのが通説になっている。

また、吉原遊郭を造成する時に土を盛った高さが現在も残っている。およそ300m平方の台地で、計画的に人為的に作られた町だということがはっきり分かる。

吉原遊郭の特徴
「吉原再見」という年に2回春と秋に出版されていた吉原の案内書がある。地図が詳しく書かれており、それをCGで置き換えると整然とした街並みが蘇る。

大門から見えるメインストリート仲之町通りの両側に並ぶのが、「引手茶屋」客に花魁たちを紹介する案内所の役割を果たしていた。普通のお客は茶屋を介してお店に上った。

客の素性や資金力を見定めた上でふさわしい遊女を紹介した。機能的に管理されたのは客だけではない。吉原再見にはその当時実際いた遊女の名前が記されている。

幕末の頃には、吉原の売り上げの1割が幕府へ納められていた。吉原は徳川の反映のためにはなくてはならないものだった。

吉原の活気と賑わい
花魁道中の先頭は引き出茶屋で紹介を受けた客、後に花魁が続く。茶屋から遊女屋までの道中が花魁道中。客に気前よく大金を払ってもらう演出だったようだ。

花魁道中の場合は、一晩遊ぶのにおよそ10両(100万円位)かかったという。また幅広い客を引き付ける仕掛けがあった。仲之町通りに、桜が咲く直前に外から根っこごと運んできて植える。

桜が散ると牡丹畑にイメージチェンジ、夏が近づくと涼やかなショウブが植えられる。大衆受けするイベントも年中行なわれていた。

秋には俄(にわか)を開催。吉原の関係者が2か月に渡り仮装し踊り練り歩く。花笠を沢山豪華に身に着けたりしていた。すずめ踊りが乱舞し、アクロバティックな獅子の曲芸まで行なわれていた。

吉原は成人男性の町と思われがち、ドラマでは女人禁制で描かれることが多い。しかし普通の町の人もフリーで入れるので女性も多かったという。

四季折々の賑やかなイベントは女性観光客を魅了した。江戸市民全体の文化的な特別なエリア、見方によっては洗練された特別な異世界空間ということなのかもしれない。

灯りが夜中にずっとついているのは吉原だけだったろう。まさに異世界だ。吉原には一晩で千両のお金が落ちるともいわれた。

吉原の文化
幕府は財政的にも吉原があることで潤っていたと考えられる。吉原も幕府によって公認されることで、幕府の後ろ盾を得て栄える、ある意味ギブアンドテイクの関係だったようだ。

花魁は江戸の女性たちの憧れの存在でもあった。ファッションは気高さみたいなものを感じる。一番目立つのが打掛、年々もの凄く派手になっていって、クジャク、虎、西予人の顔などが刺繍された。

髪に刺されている沢山のかんざしを見て、当時の人は後光がさしていると表現した。髪型の横に張り出した部分の「灯籠鬢」は、鯨のひげを使って大きく広げた。

吉原の遊女から髪型が全国に広がり様々にアレンジされていった。花魁はファッションリーダー、吉原自体が一台文化の発信地だった。

伝説の花魁 高尾
江戸時代の初め吉原の伝説となった花魁、もっとも有名な高尾太夫。そもそも高尾は三浦屋の格式が高い花魁が襲名する名であった。

栃木県那須塩原に高尾の伝承が残っている。江戸時代高尾没後150年を記念して建てられた高尾塚がある。今でゆう大スターで地元の誇りだったようだ。

塩原出身で幼名は「あき」、あきは拾ってきた葉の化石を湯治場で売って家計を支えた。そこで出会ったのが三浦屋のご主人、あきは養女として引き取られた。

10年後の1658(万治元年)年頃の吉原で、三浦屋の看板花魁高尾としてデビューする。その姿や振る舞いは瞬く間に客の心を掴んだという。

当時の花魁は高い教養を身につけるため努力を重ねたといわれている。あきは直ぐに読み書きを覚えたという言い伝えがある。

高尾は信念を貫いた、心を許せぬ相手には決してその身を売らなかった。どんな侍が来ようがこれは嫌だと思えば振ってしまう。それは大金を稼いでいる花魁だからできるのだろう。

格別な行為であり、金で買えない真心を通すというのが意気地。その意気地は花魁の大きな魅力のひとつだった。当時の女性たちには、花魁の生き方も魅力的だった。

井原西鶴の「好色一代男」には、プレイボーイの主人公を35回振り続ける女性として高尾が登場する。史実の高尾は19歳で病気で死亡した。