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相田みつをの息子とは?

相田みつをのことをある人は書家と呼んだり、ある人は詩人と呼んだりする。彼の関連書籍は累計2,000万部超えの大ヒットになっている。しかしその名が有名になったのは死後だった。

息子のカズヒト(一人)さんは、みつをが31歳の時待望の長男として生まれ、生後間もなくから破天荒な父に振り回されたという。

斬新すぎる命名
-没になったもの-
・平凡
・凡平
・どん底

驚異の極貧生活
無名だったのに30歳のときに筆一本で生きていくと決めた。筆で以外の収入は得ない。

母方の親戚は、みつをは夢ばかりで現実が無い男と酷評していたという。

大卒の初任給が1万5千円の時代、30万円の筆を購入。そして練習でも本番用の高級紙を使用。これら全てをツケで買っていた。

母親が何とかお金を工面しては少しずつ払っていた。毎日失敗した高級紙は約3万円、今の勝ちではン十万円!?

当時を知っている筆屋さんや紙屋さんは、相田みつをは信用しなかったが奥さんを信用していたという。

しかも住まいは8畳間を間借りしていたにもかかわらず、みつをは30畳のアトリエを建て、座って書く畳の15畳と、立って書く板の間15畳を使っていたという。

大量の書き損じの紙は、トイレットペーパーとして使用。テレビ、洗濯機、冷蔵庫の三種の神器がない、石油ストーブなどの暖房器具もない、風呂もない暮らしをしていた。

相田みつを流教育術
・世話になったら礼状を書くべし

・一生勉強一生青春
みつをが元気がないのをカズヒトさんが非難してでき上ったのが<道>

<道>
長い人生にはなあどんなに避けようとしても どうしても通らなければならね道というものがあるんだなあ

そんなときはその道を黙って歩くことだなあ

愚痴や弱音を吐かないでな 黙って歩くんだよただ黙って涙なんか見せちゃダメだぜ

そしてなあそのときなんだよ人間としてのいのちの根がふかくなるのは

一人
みつをさんが亡くなってから5年後、カズヒトさんは勤めていた会社を辞めて東京銀座に「相田みつを美術館」をオープンした。

この時はまだ相田みつをの知名度は低く、集客の見込みも立たない状態。父の作品をちゃんと診て頂きたい一心だったという。

世の中に必要とされるものは自然と残る。とは言え美術館は作ってみなければ世の中に必要かは分からない。それが今から25年前。

じわじわ日本に広がり、世の中に必要だったことが証明された。カズヒトさんは相田みつをを突っ込めるただ一人の人だった。