賢い人が「マルチタスクをしない」と言われる背景には、単なる性格や好みではなく、かなりはっきりした認知科学・心理学の知見があります。
その理由をできるだけ体系的に整理してみます。
1. 「マルチタスク」はほぼ幻想に近い
まず前提として、人間の脳は「同時並行で複数の認知タスクを処理する」ことがほとんどできません。
研究では、私たちがマルチタスクだと思っている状態の多くは、実際には「タスクの高速な切り替え(task switching)」であることが示されています。
・本当に同時にできるのは限られる
たとえば「歩きながら話す」など、自動化された単純動作と会話の組み合わせは可能ですが、「資料を読みながらメールを書く」「会議に出ながらチャットの返信を練る」といった、いずれも思考負荷の高い作業を同時に処理することは原理的に難しいとされています。
・脳内では逐次処理が起きている
一見同時にやっているように感じても、脳内では「Aに注意 → Bに注意 → Aに注意…」と注意の焦点が高速で行き来している、というのが現在の主流の理解です。
賢い人は「脳の構造上、真の意味でのマルチタスクはできない」という前提をよく理解しているので、「できるつもり」で無理をするよりも、「いかにタスクを一つにまとめるか」「切り替え回数を減らすか」に意識を向けます。
2. タスク切り替えには大きな「スイッチングコスト」がある
マルチタスクの最大の問題は、タスクを切り替えるたびに「時間とエネルギーが失われる」という点です。
心理学の研究では、タスク切り替え時には以下のようなコストが発生することが示されています。
・切り替えのたびに再起動が必要
あるタスクから別のタスクに移るとき、脳は一度「前のタスクに関するルールや文脈」を抑制し、新しいタスクのルールを再びアクティブにする必要があります。
・その都度、わずかな時間ロスが蓄積する
実験では、タスクを頻繁に切り替えると、単一タスクのときに比べて合計所要時間がかなり長くなることが繰り返し確認されています。
・認知的な「立ち上がり時間」が地味に重い
実務感覚でも、「あれ、どこまで考えていたっけ?」と再度状況を思い出す時間がかかります。
この「思い出しコスト」「集中し直すコスト」が積み上がることで、時間だけでなく精神的な疲労も増大します。
あるレビューでは、タスク切り替えによって生産的な時間の最大約4割が失われる可能性が示唆されています。
また、エラー率の増加やワーキングメモリ(作業記憶)の効率低下も報告されています。
賢い人は、この「スイッチングコスト」が侮れないと理解しているため、マルチタスクを「効率が良さそうに見えて、実は大きなロスを生むもの」として避けます。
3. 作業の質が落ち、ミスが増える
マルチタスクは速そうに見えて、アウトプットの質を下げます。
特に、思考の深さや判断の正確さが求められる仕事では致命的です。
・注意資源は有限
人間の注意力は「限られたリソース」として扱われます。
一度に複数の複雑なタスクに注意を割くと、一つひとつに割けるリソースが減り、浅い処理になりがちです。
・エラー率が上昇する
実験研究では、複数の認知タスクを切り替えながら行うと、単一タスクに比べて誤答率、エラー率が高くなることが繰り返し示されています。
・「わかったつもり」が増える
メールやチャット通知に気を取られながら資料を読むと、「読んだ気」「理解した気」にはなるものの、後から内容を説明させると理解が浅いことが多い、という現象も報告されています。
賢い人ほど、成果の評価が「スピード」だけでなく「質」「再現性」「信頼度」によって決まることを理解しているため、「速く見えるマルチタスク」より「じっくり深くやるシングルタスク」を選びます。
4. ワーキングメモリと認知負荷の観点
マルチタスクが苦手な理由は、ワーキングメモリ(作業記憶)の限界とも深く関わっています。
・ワーキングメモリの容量には限界がある
私たちは、一度に保持し、操作できる情報量が限られており、これを超えると急激にミスが増え、処理効率が低下します。
・マルチタスクは「余計な負荷」をかける
認知負荷理論では、「本質的な負荷(課題そのものの難しさ)」と「余計な負荷(やり方のまずさによる負荷)」を区別しますが、マルチタスクは典型的な「余計な負荷」を増やす行為とされています。
・深い思考には「余白」が必要
複雑な問題を考えたり、新しいアイデアを生み出したりするには、ワーキングメモリに十分な「空き」が必要になります。
通知や別タスクのことを常に気にしている状態では、この余白が奪われ、思考が浅くなります。
賢い人は、自分の認知資源を「節約しつつ最大活用する」感覚が強いため、ワーキングメモリを無駄に圧迫するマルチタスクよりも、「一つに集中して、一気に片づける」戦略を取ります。
5. 長期的には集中力そのものを蝕む
マルチタスクは、短期的な効率だけでなく、長期的な集中力や注意習慣にも悪影響を与えると指摘されています。
・常に注意を分散させる習慣がつく
通知をこまめにチェックしつつ作業する生活を続けると、「何か他のことをしていないと落ち着かない」状態になりやすく、長く一つのことに没頭する力が弱まっていきます。
・「深い集中」の快感を味わえなくなる
深い没頭状態(いわゆるフロー)は、学習効率を高め、仕事の満足感や創造性とも結びついていますが、マルチタスク環境ではこの状態に入ることが難しくなります。
・メンタル疲労が蓄積しやすい
常に注意を切り替え続けると、自律神経や脳の疲労もたまりやすく、「何もしていないのに疲れている」「一日が終わると消耗感だけが残る」といった状態に陥りやすいと指摘されています。
賢い人ほど、「認知資本」「注意資本」を長期的に守ることの重要性を知っているため、目先の「同時並行感」よりも、「集中力を温存できる生活設計」を優先します。
6. シングルタスクのほうが、結局「速くて楽」
研究や実務経験の蓄積から見ていくと、ある程度以上の難易度の仕事では、マルチタスクよりシングルタスクのほうが、最終的には速く、正確で、疲れにくいという結論に収束します。
・一つずつ片づけたほうがトータル時間が短くなる
前述のとおり、タスク切り替えにはスイッチングコストがあり、それをなくして一つのことに集中したほうが、合計時間が短くなることが多いのです。
・質も上げやすく、やり直しも減る
ミスや理解不足が減るため、後の修正、再作業も少なくなり、結果として「最初からシングルタスクでやっておけばよかった」ということになりがちです。
・精神的に楽で、自己効力感も高まりやすい
「目の前のこれだけに集中すればいい」という状態は、心の負担を軽減し、「自分はちゃんと前に進んでいる」という感覚を得やすくします。
賢い人は、「同時にいろいろやる」より「優先順位を決めて、一つずつ確実に終わらせる」ほうが、長期的なパフォーマンスも幸福感も高いことを経験的にも理解しています。
〇まとめ
賢い人がマルチタスクを避けるのは、単に「集中力があるから」ではなく、
真のマルチタスクはほぼ不可能で、実際には高速なタスク切り替えにすぎないこと 。
タスク切り替えには大きなスイッチングコストがあり、生産的時間とエネルギーを浪費すること。
作業の質を下げ、エラーを増やし、理解を浅くしてしまうこと。
ワーキングメモリと集中力をムダに消耗し、長期的な注意力を蝕むこと。
結局はシングルタスクのほうが速く、楽で、成果の質も高くなりやすいこと。
といった科学的、実務的な理由を踏まえ、「合理的な戦略」としてシングルタスクを選んでいるからだといえます。


