スポンサーリンク

龍馬の真実とは?

坂本龍馬といえば幕末のヒーロー、数々の偉業をなしとげた。

偉業その1:薩長同盟
江戸幕府を倒す軍事同盟の立て役者。

1864(元治元)年7月 禁門の変では朝廷をめぐって長州が幕府軍と衝突。初めは長州が優勢だったが、薩摩藩が幕府側に加勢すると状況は一変、長州藩が惨敗した。

京都1866(慶応2)年1月21日薩摩藩家老の小松帯刀の屋敷、薩摩藩は西郷隆盛と小松帯刀、長州藩は木戸孝允が龍馬の仲介で面談し薩長同盟が成立。

龍馬のアイデアで薩摩藩は長州藩へイギリスの武器を提供、長州藩から薩摩藩はへ豊富な米を提供することが決まった。

同盟成立後、鳥羽伏見の戦い1868(慶応4)年1月3日、薩長軍5000 vs.幕府軍15000 薩長軍は幕府軍を撃破した。新しい時代の扉を龍馬が開けたのだ。

偉業その2:大政奉還
1867(慶応3)年10月、260年幕府が担ってきた政権を朝廷に返上した。これは龍馬が考えたものだった。

坂本龍馬 → 土佐藩重役後藤象二郎 → 土佐藩主山内容堂 → 将軍徳川慶喜

大政奉還の4か月前、長崎から神戸へ向かう船の上で、龍馬が後藤象二郎へ1枚のメモを渡した。

これが船中八策だ。そこには大政奉還後の新しい政治体制が記されていた。徳川家は存続し、徳川慶喜の権限は大きかった。

京都河原町 1867(慶応3)年11月15日、龍馬暗殺 享年33歳。

龍馬の真実
薩長同盟は両藩主の間で
2017年に教科書から龍馬が消えるのではないかということが起こっている。

高校と大学の先生でつくる大きな歴史教育の研究会があって、余りにも教科書に用語が多過ぎるので減らすべきだと提言された。

その削減案に坂本龍馬の名があったという。それは恐らく薩長同盟と大政奉還に龍馬は深く関わっていないという説が出てきたから。

薩長同盟の覚書に、「薩摩は朝廷との交渉に力を尽くすこと」「薩摩は朝廷へ申し上げ、長州藩の冤罪を晴らすよう力を尽くすこと」

「長州藩の冤罪が晴れた時は天皇のご威光回復に力を尽くすこと」などと書かれており、

長州藩の一方的な要望ともとれ同盟ではないのではないかと考えられる。しかもこの条文をまとめたのは、長州藩の木戸孝允。

対等な同盟は、実は前の年に薩摩藩家老の小松帯刀が長州藩にアプローチして、両藩主の間で親書のやり取りをして薩長同盟は成立していたといわれている。

<船中八策との類似点>
・天下の政権を朝廷に奉還

・上下議政局(上下議会)

・無究のたい点(憲法)

船中八策の一番古い資料は、大正元年発行の「維新土佐勤王史」、龍馬の時代からは見つかっていない。

龍馬が書いた「新政府綱領八策」は船中八策と似たところがあるが、書かれたのは大政奉還の翌月に作成された。

船中八策はフィクション、土佐をアピールしたい人たちが関わっているのではないかといわれている。

坂崎紫瀾という明治時代の新聞記者でもあり小説家でもあった人物は土佐藩出身、「汗血千里の駒」という龍馬が主人公の伝奇小説を書いた。明治にベストセラーになった。

当時の明治政府のメインは長州と薩摩の人たち、土佐藩の人たちは弱くなっていたという時代背景も関係しているのではないだろうか。

また昭憲皇太后の夢枕に龍馬が現れ「日本海軍は必ず私が守ると…」それが新聞の記事にもなった。明治37年というのは日露戦争の海戦の年。

翌年実際に日本海軍はロシアのバルチック艦隊をほぼ全滅させる。一躍龍馬は有名になっていった。

昭憲皇太后に仕えていた宮内大臣の田中光顕も土佐出身、龍馬と大変仲がよくて龍馬が暗殺された時一番最初に駆けつけた1人。

皇后宮大夫の香川敬三は、土佐浪士を中心とする陸援隊の隊士。彼が龍馬の写真を皇后の部屋に置いており、夢枕を誘導した可能性が高い。