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地震予知は遅れてる!?

今から100年前に地震予知を廻って大論争した2人の科学者がいた。東京帝国大学教授の大森房吉と助教授の今村明恒だ。

大森房吉は、世界に先駆けた研究で日本を地震学の先進国にした立て役者。今村明恒は優れた業績をあげながら大森の陰に隠れ、万年助教授とやゆされた男。

今村は大地震が起きると予言し、大森はそれを頭ごなしに否定した。

「どうしてあなたは人心を惑わすのか」「地震が継続しているのに、大地震の心配が全くないなどど断定する訳にはいかない」

10年以上に及ぶ論争の間に、世界をリードしていたはずの地震学は周回遅れとなった。学問的に論争がもたらしたものは何もないと言っていいのではないだろうか。

幻の地震予知
大森房吉が発明した、大森式長周期地震計はドラムに記録紙を巻き常時動かすことで地震の一部始終を記録することができた。世界初の連続記録可能な地震計。

明治の日本で生まれた地震学は世界に先駆けた学問だった。この地震学を大森は理科大学(東京帝国大学理学部)で学んだ。

明治24(1891)年10月、中部地方を激震が襲った「濃尾地震」、マグニチュード8.0 死者行方不明者7200人以上、観測史上最大の地震であった。

大森は調査隊の一員として被災地に入った。初めて見る悲惨な震災現場、この時代まで地震の原因は分かっていない。観察してひたすらデータを集めるしかなかった。

片っ端から倒れた墓石の寸法を測定、余震が起きた時刻を記録、東京に戻ると大学で報告会が行なわれた。大森に学生から質問の手が上った。その学生が今村明恒。

科学史家の泊次郎によると、大森は非常にそつのない官僚タイプ。今村はこの程度ならまだ自分にも活躍の場面があるのかなとたぶん思った。

明治27(1894)年、濃尾地震の観測データを統計的にまとめ上げる。大地震から5日間の余震のデータから、数年後の余震の数が予測できると思いつく。余震の大森公式

今でも大森公式を改良した、改良大森公式(1957・1961宇津徳治)が余震の予測に使われている。大森は若手地震学者として将来を期待され、欧州留学に旅立つ。

今村明恒は東京帝国大学大学院を卒業後、地震学の助手となる。助手には給料が出ない。アルバイトをしながら研究を続ける。

明治30(1897)年、今村の前にヨーロッパから帰った大森が現れた。大森は29歳で帝大教授、今村の上司となった。

大森はヨーロッパ仕込みの数学や物理を駆使して次々と研究結果を発表。震度を7つの分けた大森の絶対震度階は、その後の震度基準の基となった。

  無感
  微震
弱き弱震
  弱震
弱き強震
  強震
  烈震

さらに地震の初期微動の継続時間から震源までの距離を割り出す、大森公式(D=kT)は現代の地震速報にも使われている画期的な理論だった。

大森博士は地震学に核心をもたらした ネイチャー誌(1901年)、大森は地震学世界的な権威となった。

その後大森は、国の研究機関「震災予防調査会」の幹事に就任、地震行政に大きな発言力を持つようになった。調査会は、防災と地震予知を研究の柱に掲げていた。

大論争
大森は予知のヒントを得ようと過去の観測データを分析、そん中で信濃川流域の5るの地震(1886~1899)に目を付けた。

ここには地震帯と呼ぶべきものが存在し、地震が起きる順番には規則性がある。地震帯が地震で埋まれば、地震は他に移動する。同じ場所では大地震は起きない。

今村はその説に真っ向から反対する。今村は有史以来から起きた全ての地震を調べた。関東では100年に一度、上越では77年に一度の周期性があり、同じ場所で繰り返し起きるという説を唱えた。

今村は東京博物館発行の「太陽」(1905年9月号)に論文を発表。東京は平均すると100年に1回大地震に見舞われる。最後の安政2年から50年になるが、54年目に起きた例もある。

災害予防には1日の猶予もない。今村は財産の損害は数億円を下らない、死者は10~20万人出ると推定した。柱と柱の間に筋交いを入れることなどの耐震化を提案。

今村が最も心配したのは火災。石油ランプの転倒でによる火災で東京は火の海に、石油ランプを全廃し電灯に切り替えるべきだ。防災対策に警鐘をならした。

大森はこれを黙殺した。論争の果てに震災は起きた。1923年 関東大震災 死者行方不明者10万5000人以上 亡くなった人の多くは火災による焼死。

今後南海トラフ巨大地震は、マグニチュード8~9クラス 30年以内 70~80%の確率で起きるとされている。地震予知は確率でしか物が言えない世界。