小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)が、妻のセツとの間に長男である一雄(かずお)を授かった際、彼が注いだ愛情は、周囲が驚くほど情熱的で、かつ繊細なものでした。
当時の状況や、八雲がどのような親バカぶりを発揮したのか、いくつかのエピソードに分けて詳しく説明します。
1. 待望の誕生と「一雄」という命名
1893年(明治26年)11月、熊本で長男が誕生しました。
八雲はこの時、すでに43歳になっていました。
*名前の由来
八雲は、この子が「自分の人生で一番最初の宝物である」という意味を込め、さらに「一」は八雲自身の日本名(小泉八雲)のルーツにも関わる数字として大切に考え、「一雄」と名付けました。
*喜びの表現
彼は一雄が生まれると、知人への手紙の中で「この子は私の魂の一部である」といった熱烈な言葉を残しています。
2. 教育と日常生活での溺愛ぶり
八雲は一雄を片時も離したくないという様子で、その育児スタイルは当時の日本の父親像からはかけ離れたものでした。
*添い寝と遊び
当時の日本の父親は子供と距離を置くのが一般的でしたが、八雲は一雄と一緒に寝たり、床を這いつくばって馬の真似をして遊んだりしました。
*「ハーンの幽霊」を怖がらせない工夫
八雲は自分の容姿(失明した左目など)を一雄が怖がらないよう、細心の注意を払っていました。
常に一雄の視界に入る時は優しい表情を作り、子供の情緒を最優先に考えました。
*食事の世話
一雄が少しでも体調を崩すと、八雲は仕事が手につかないほど狼狽し、自ら滋養のある食べ物を用意したり、つきっきりで看病したりしたと言われています。
3. 将来への不安と「教育」への執念
八雲は自分が高齢で父になったこと、また自分が西洋と東洋の狭間で苦労した経験から、一雄の将来に対して非常に過保護な一面を見せました。
*英語教育の拒否
意外なことに、八雲は一雄に早くから英語を教えることを嫌いました。
それは「まずは純粋な日本人としての心を育てるべきだ」という信念があったからです。
彼は一雄に、日本の古い美徳や物語を熱心に語り聞かせました。
*精神の継承
八雲の名作『怪談』などは、実は一雄に語って聞かせるための物語という側面もありました。
自分の死後も、一雄が「美しい日本の心」を忘れないようにという、彼なりの遺言のような愛情だったのです。
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4. 執筆活動への影響
八雲の作品には、一雄が生まれてから「子供」や「母性」、「輪廻転生」をテーマにしたものが増えました。
「この子が生まれてから、私は世界が全く違った色に見えるようになった。私はもはや自分のために生きているのではない」
このように友人に語った八雲は、一雄の学費や将来の蓄えのために、晩年は体調を崩しながらも猛烈に執筆活動に励みました。
彼が東京帝国大学(現在の東京大学)での講師職を解雇されそうになった際、激しく動揺したのも、一雄の将来を案じてのことでした。
八雲にとって一雄は、単なる息子という存在を超え、彼が愛した「古き良き日本」の希望そのものだったと言えるでしょう。

